2011.10/4〜22 SAL exhibition at HATOS BAR

2011年10月4日〜22日まで、中目黒HATOS BARにて行われた、ペインターSALの個展。今回は、生死の境地や精神性、そして死ということに向かい表現した作品。ワタシの眼には「象徴」という言葉が浮かび上がってきた作品群であった。凄まじい世界観を生み出すSALの作品はこれからも注目である。

下記には、SAL自ら語る今回の作品についてのコメントを掲載した。

以下、SALによる解説

いま、僕が描こうとしているものは”人間”です。
”人間”には他にもいろいろ言い方がありますが、たとえば生物学的に言えば、それは”ヒト”です。”人類”という言い方をすれば、歴史学的な角度で捉えられそうですし、単に、”人”という言い方をすれば、おそらくそれは社会的な存在として語れるでしょう。

社会的な存在である”人”は、お互いを頼りとして、補いあって生きようとする存在です。ひとりではできない壮大なことを、”人”は社会で一つになって成し遂げてきました。だからこそ”人”は、社会の一員として、自分という存在に価値を見つけます。仕事、友人、家族、それ以外でも社会は、さまざまな価値を人に還元し、人はその価値の中に、自分という存在を投影しようとします。

けれど、僕が扱おうとしているのは”人間”であって、言わばそれは何的でしょうか。哲学的でもありますし、宗教的でもあると思います。どちらにしても、それは”社会的なもの”以外のところに価値を発見する存在であると思います。

”人間”は、”生きるとはなにか?”、”死とはなにか?”、”世界とはなにか?”と、問いかけ続けます。”人間”とは、考え、問いかけ続ける存在です。
”人間”は、生きることそれ自体の中に、克服することのできない根源的な矛盾を感じ、永続的に存在することの不可能性の中に危うく存在しています。そのため”人間”は、生得的な”生きることの困難さ”を抱えて存在するのです。
そういう”人間”にとって、自身の存在を証明できるのは、”今、この瞬間”のみであって、本来不可能であるはずの”生存すること”を確実に証明できるのは、その不可能性を覆して、事実その生をまっとうしている今、現在にしかなく、大きな矛盾を孕んだ”生”そのものの不可能性に対して、一時的に勝利するこの奇跡は、蓄積することも記憶することもできない魂の輝き、魂の叫び、生そのものです。

白州正子によると、青山二郎は「たしかに魂は見えないところに隠れているが、もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにおかない。」と言ったそうですが、僕はその魂の”外側の形”を描こうとしています。

生得的な”生きることの困難さ”を抱えた”人間”の魂はどんな形か。分けても、”瞬間の生”に生きようとする魂の外形はどうか。そのようなものを描こうとしています。